「岐阜県家庭教育支援条例」を考える
岐阜県は、平成26年12月、岐阜県家庭教育支援条例(以下、「支援条例」といいます)を公布しその後施行しました。
支援条例は、県会議員の熱心な運動によって全会一致で制定されたと聞いていますが未確認です。安倍元総理が殺害されたことが切っ掛けとなって、事件の背後に旧統一協会の影響があったことが明らかになりました。
毎日新聞のネット記事には、こう記載されています。
このような背景で制定された支援条例ですが、前文冒頭で、「父母その他の保護者は、子どもの教育について第一義的責任を有し、基本的な生活習慣、自立心、自制心、道徳観、礼儀、社会のルールなどを身に付けさせるとともに、心身の調和のとれた発達を図ることが求められている。」などと述べています。家庭教育が大切だとする意見は、説得力があります。私も3人の娘の父であり、7人の孫がいます。一般論として異議はありません。
因みに、教育基本法第10条(家庭教育)がほぼ同様の規定になっています。
どこか悪いところがあるのでしょうか。
「国の価値観の押しつけになる危険がある」と言う主張があるようです。しかし、明治憲法下なら教育勅語がありましたから、価値観は自明でした。森友学園の場合は、園児に教育勅語を唱和させていたことが報道されましたが例外です。国の価値観というだけでは、抽象的で大雑把です。では、どう考えるべきか。旧統一協会にまつわる問題は、多岐にわたります。皆さんが考えられるひとつの切っ掛けになれば幸いです。
なお、家庭と家族とは、厳密な意味では異なりますが、その点に深入りせず、概ね同じとして考えていきます。
さて、この条例が理想としているのは、いまだに根強く残存している家父長的な家族観ではないか。つまり、家制度が前提とする夫と妻との役割分担、そこから導かれる“秩序正しい平和”な家庭、そこで実践される理想の教育です。その意味で、「国の価値観」の残滓です。言い換えると、良妻賢母を再生産せよと求めている!前文が「父母その他の保護者」と言いながら、責任を負うのは、実は、母親です。その言い方が悪ければ、現実としては、母親に責任が覆い被さってきます。そこには、家庭内における女性の人権の視点が欠落しています。そして、何よりも子どもの発達権等の視点が欠落しているのではないかと思います。
なぜ、その観点が欠落するのか。それは、自民党改憲草案(以下、「草案」と言います)を見れば分かります。草案前文3段には、「日本国民は、(中略)家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とあり、家族は、国家形成の基礎とされ、第14条1項後段には、「家族は、互いに助け合わなければならない」とされているからです。要するに、家族は、国家形成の基礎単位であるから、家族の麗しい助け合いは、義務だと言うわけです。これに対し、日本国憲法は、明治憲法下の家父長的秩序を根底から否定し、前文で「人類普遍の原理に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と謳い、第14条では、明治憲法下の家長や父母による婚姻同意制度を廃止する趣旨で「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本とす(る)」などと規定しています。 従って、支援条例は、草案とシンクロして、古風な家父長的家族をもって国家統治の基礎に位置づけようとしていると一応は認識されるのです。問題は、なぜ支援条例と草案とがシンクロするのかです。私は、あるジャーナリストから、旧統一教会が冷戦の終結で反共と言う共通目標を失い、引き続き守旧勢力に浸透を図ろうとして新たな共通目標を選んだのだと教示されました。つまり「反共」から「家庭」へ、です。但し、前記のとおり、「家庭」は、「家族」とはほぼ同じ扱いです。
家庭と言っても、旧統一教会は、選択的夫婦別姓や同性婚に反対していますし、そもそも教義上、エヴァが蛇(サタン)との間で罪を犯したのが原罪だとしており、要は男尊女卑の価値観を最上位に位置づけていますから、その意味するところの「家庭」とは、時代の進展とともにバージョンアップされてきた男女同権の家庭ではありません。草案が念頭においている復古的な家族観でもないと言う意味では、同床異夢です。
旧統一協会の家庭観とシンクロする時代錯誤な家族観は、明治憲法下の家族制度に由来します。そこでは、天皇は国家と言う家族の長であるとされ、その下に赤子(せきし)としての臣民の家族が相和したわけです。私の祖父母の家の離れには、明治天皇と昭憲皇太后の肖像画が飾ってあったことを思い出します。しかし、国家と言う家族の長、すなわち主権者である天皇は、歴史的に否定されました。従って、草案がイメージする家族は、その集合全体を統合すべき扇の要を欠いていますから中途半端です。国家形成の基礎に家族があると主張してみても日本国憲法の国家は家父長秩序の中心軸を欠きます。全ての家族が何かに向かって統合されることはありません。日本国憲法の天皇は、国民統合の象徴ではありますが、そのご家族は、国民の家族全体の統合の軸ではありません。もとより、明治憲法下の家制度が復活する余地はありません。それにもかかわらず、草案が家族にこだわっているのはなぜか。その点を支援条例の側から考えます。
支援条例は、家庭の教育力の低下を述べていますが、父親が社会や職場で尊厳ある存在を認められていない現実を無視しています。典型例を示せば、父親が過酷な労働に耐えて働いても低収入であれば、母親がパートに出ます。家の中はストレスフルで安らげる場所ではありません。外でリスペクトされていない父親が家庭においては、弱者である妻や子どもにDVやモラハラ、ネグレクトを引き起こしている現実がある。父親が受けている抑圧の転嫁です。悪いことに、経済格差が固定され多かれ少なかれ虐待されて育った子ども世代が親世代になればその傾向は繰り返されます。
日本国憲法25条によれば、「健康で文化的な生活」を維持すべき責任は国家にあります。 しかし、現実の社会は、多くの国民が「不健康で非文化的な、生きるのがやっとの生活」を強いられています。最近の報道によれば、岐阜県関市で生活保護を受けていた60代の男性が、軽乗用車を持っていることなどを理由に市が保護を停止したため、男性は、違法だとして処分の取り消しを求める訴えを提起したとのことです。
そのような中から家庭の崩壊や「教育力の低下」が必然的に起こってきます。古来日本では、貧すれば鈍すると言います。その逆に、衣食足りて礼節を知る(「管子」に由来)とも言います。経済的困窮と教育力の低下は、明らかに相当因果関係があります。政治の責任は、国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障することにあります。その保障が行き届いていれば、親が文化的な生活を享受しますから、おのずから子供を大切に育てるでしょう。一々権力が介入しなくても、健全な教育は、他の教育文化環境と相まって自然に成し遂げられるでしょう。そもそも、家庭教育のあり方は、各々の家庭の自主自立の自由な領域であり、外部から介入すべきではないのです。教育力が低下した責任を家庭に押し付けることは、政治の責任放棄です。古風な家族観が残存するところに、家庭第一義的責任論が更に上書きされれば、子供の非行が表面化するたびに、「親の顔が見たい」論がはびこる社会的根拠となります。今ですら悲惨な殺傷事件が発生すると容疑者の親がテレビの取材を受けて謝罪する光景が映し出されます。まさに、親の顔(ぼかし付)が天下に晒される瞬間です。親は、後ろ指を指されないように戦々恐々として世間に気を使って子どもを躾けるでしょう。世間に顔向けができないから親の顔に泥を塗るなと言う意識に拍車がかかります。家庭第一義的責任論は、憲法25条の趣旨に違反し、政治責任を免罪し隠蔽するものです。ここに「国の価値観の押しつけ」としては、中途半端なように見えて、実は重要な政治的機能がセットれていると見るべきです。旧統一協会(世界平和統一家庭連合)の側からすれば、理想的な家庭をシンボルマークとして掲げ、崩壊の危機に瀕する家庭をサタンから救済するつもりなのでしょう。
いわば無責任政治の受け皿として教団が生き延びると言う戦略なのでしょう。ここに両者の新たな共存の根拠があります。眼前に広がる布教の沃野を見ていると推測します。旧統一教会とこれに賛同した県会議員は、まさに、社会と家庭の過酷な現実を敢えて見ないことにし、それによって、存在しない扱いにした。政治の責任を棚に上げ、それを存続させるべく、この論理を採用したわけです。即ち、民を欺く統治の技術です。私は、ここに中途半端なように見えて、実は重要な政治的機能がセットされていると認識します。
加えて、子どもは将来の主権者ですから主権者教育こそが必要です。即ち、子どもが尊厳ある主体として扱われるべきだと言うことです。子供が伝統的家族観の残滓によって躾を強要されれば、尊厳ある主体である根本の自己認識が得られず、精神の発達を復古的に制約され、その狭隘な空間に精神が囲い込まれる危険が増加します。家庭の教育力支援と言う名の下に子どもの精神発達の自由を抑圧阻害するのであれば、人権侵害にも該当する由々しい事態だと思います。そのことによって将来の主権者の自由な精神の発達が県民全体として阻害されるのであれば、結局において、日本国民の民度の劣化、ひいては国力の劣化を促進します。
古き良き時代に良妻賢母が守っていた平和な家庭に相応の教育力があったとしても、今やほぼ解体しています。この現実社会の中で今更これを持ち出しても何の解決にもならない。むしろ、子供の十全な心身の発達を促す意味では、弊害が大きい。それにもかかわらず、家庭の教育力を持ち出すことは、民主主義社会における統治手段として理念が貧しいだけでなく、その弊害と危険性が著しいと思います。その帰結は、民主主義の草の根からの劣化です。
冒頭に戻りますと、支援条例は、「国の価値観の押しつけになる危険がある」と言うのはやや的外れで不十分です。支援条例の本質は、「国民の経済的困窮による家庭の崩壊を家庭自身の自己責任とする新自由主義的な政治的目眩ましである」と言い換えるべきでしょう。
拙文に最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
弁護士 平井治彦