ブログ・コラム

記事詳細

個別的自衛権と平和的生存権 -国家の論理から人権の論理へ-

 

 ウクライナは侵略を受けています。反撃するのは自衛権の行使として正当です。

 

 プーチンは悪魔であり、ゼレンスキーは正義であることは認めます。

 

 しかし、だからといって戦争が正当化される理由はないと思います。何故か。

 自衛戦争との観点からは、反撃の正当化はできます。しかし、ロシア軍に対する反撃の結果、ウクライナ国民の命と生活が完全に踏みにじられるという事態を招いた現実、平和的生存が全面的かつ徹底的に蹂躙される現実を招いた国家行為であるという意味では、世紀の大失敗であり正当化はできません。

 今となっては、始まってしまった戦争をどう止めるか、どうやって外交の舞台に引き戻すかを考えるべきです。終わりの見えない戦争は、生物化学兵器や戦術核の使用に至り、ついには第三次世界大戦に突き進む可能性があります。それは、人権ではなく、国家の論理だけを推し進めた故の結末です。

 

 報道によれば、ロシアは停戦条件としてNATO非加盟を確実にする憲法改正を要求しているとのことです。憲法改正は、当該国家の専権事項ですからロシアはウクライナの主権にかかわる問題を自己の都合で解決しようとしているわけです。また、ロシアは、既に占拠しているクリミア半島(共和国)などのロシア連邦への併合は譲っておりません。要するに、主権と領土が争点になっているわけです。その結果、ウクライナの北から東を経て南まで多くの領域でロシアとの交戦状態となり、多数の市民が犠牲となっただけでなく、住処を追われた避難民は1000万人に及んでいます。

 

 ここで重要なのは、国家の正義はともかく、国民の平和的生存は、完全に踏みにじられていることです。確かに、ゼレンスキーは、自衛戦争の大義を掲げていますが、その戦争の重大な反射的不利益としてウクライナ国民の命と生活を犠牲にしています。

 反射的不利益であるならば、ウクライナ国民は、命と生活の犠牲を受忍すべきでしょうか。というのは、ウクライナの自衛権行使が直接にウクライナ国民の平和的生存を蹂躙しているわけではないからです。平和的生存を直接に蹂躙しているのは、ロシアです。その意味では、ウクライナの個別的自衛権の行使は、反射的にウクライナ国民の平和的生存を蹂躙している結果になっているだけだということもできます。しかし、日本国憲法は、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」と述べています。ここで、政府の行為とは、自衛権の行使を含むと解すべきです。また、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」とも述べています。この平和的生存権は、自衛戦争であれ巻き込まれて犠牲になることを拒否する権利を含むと解すべきです。また、この平和的生存権は、全世界の国民が有するとも述べていますから、日本国憲法の立場からすれば、ウクライナ国民も有しているわけです。

 火事は、燃え盛ってから消火するのでは遅い、ボヤのうちに消し止めるのが要諦です。それが真実ならば、ゼレンスキーないしウクライナのこれまでの外交戦略に根本的な問題がなかったか厳しく問われるべきだと思います。これまで平和外交に徹したか、それとも外交の失敗があり、多少とでも自ら招いた事情はないのかということです。そこに失敗があれば、急迫の侵略とはいえず、安直な自衛権の発動との非難を免れません。そのような自衛戦争は、平和的生存権の侵害になると考えます。

 

 そこで戦争の終わらせ方がいかに難しいか考えて見たいと思います。

 我が国の太平洋戦争末期において、軍人の一部には本土決戦を主張した者もいました。というのは、ポツダム宣言8項が、「日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるベし」としていましたから、これを受諾した場合、日清戦争以来獲得してきた海外の領土のみならず、ロシアとの外交交渉で平和的に取得した領土(千島)を全て失います。加えて、9項が、「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」としていましたから、帝国陸海軍は、解体されて消滅します。国家主権とは武装によって担保された国家意思の絶対性だとするならば、国家の絶対意思を担保する装置が消滅しますから、ひいては国家主権が消滅します。

 要するに、領土と主権を失うことは国家の消滅と同じです。故に、ポツダム宣言は、絶対に受け容れられない。よって、本土決戦を敢行して有利な立場を構築した後に停戦交渉に臨むべきであるという筋書きです。本土決戦に至れば、更に数十万、数百万の人命が失われたでしょう。子供の頃、大人から聞いたおぼろげな記憶があります。本土決戦に備えて、男は竹槍をこしらえ、女には、青酸カリが用意されたというのです。因みに、沖縄戦では、全土が戦場となりました。戦前の沖縄県の人口は約49万人で、戦没者が約12万人。4人に1人が亡くなったとされています。

 今の、ゼレンスキーとプーチンもこれと同様に互いに有利な戦況を勝ち取らない限り停戦には応じないスタンスだと思われます。これでは容易に戦争の終わりは見えてきません。その間は、ウクライナが破滅的な戦場になります。 

 

 大日本帝国存亡の危機に当たって、幸か不幸か国家を超えた存在として天皇がありました。天皇機関説事件を転機として、天皇は、国家内部の機関ではなく、国家に超越して君臨し、国家を所有する現人神として絶対者の姿を現していました。従って、国家が失われても天皇及び天皇制が存続するのであれば、“国体”は“護持”されることになります。

 かくして、国体護持を頼みに本土決戦を選択することなくポツダム宣言は受諾されました。アメリカの淵源はイギリス王国であり、アメリカであれば皇室の何たるかを弁えているが、ソ連は、革命でロマノフ家を殺戮した歴史的事実があるではないかということです。本土決戦で降伏が長引き、北から上陸するソ連軍に関東以北が占領された場合、天皇の命運は、危険に晒されることが想定されました。種々思考を巡らせば、アメリカに降伏するのが皇室延命の上策と決断されたのだと思います。余談ですが、あのタイミングにおける無条件降伏(ポツダム宣言受諾)の真の動機は、原爆投下ではないと私は思います。

 たとえ、国家が滅ぶとも天皇制さえ存続すれば何とかなるということです。

 天皇が“御座(おわ)しました”ことによって、本土決戦が回避されたとすれば、天皇制は、国家存亡の危機を受け止める政治的装置としては、まことに巧妙に作動したことになります。

 御前会議に列席する軍人幹部は、戦争の終わり方を構想できなかったが、天皇は、戦争を終わらせることができたということもできます。

 但し、無条件降伏というベタ降りでも、天皇の血が存続しさえすれば、ヤマト民族としては残るという恐ろしくも古めかしい論理です。こうやってやっとの思いで戦争を終わらせることができました。

 

 ゼレンスキーには、こうした政治的装置の持ち合わせがありません。世界に向けて徹底抗戦を煽っています。妥協がなければ戦争目的完遂に向かって突き進むほかありません。

 翻って、日本国憲法の下では、天皇は、国家国民の統合でしかなく、国家の所有者ではありません。かつて本土決戦を避け得たような政治的装置として機能することはありません。 

 

 眼を転じますと、尖閣諸島は、我が国のみならず中国も主権の存在を主張しています。

 我が国は、尖閣諸島には主権にかかわる問題は存在しないとの立場です。即ち、尖閣諸島には、国際紛争は存在しないとの立場です。故に、中国が尖閣諸島に武力を行使した場合、我が国が自衛権を発動する根拠になります。しかし、いかに不当とはいえ中国の主張を封じることはできません。その意味で、尖閣諸島は、事実としては、いわば主権競合の状態にあります。国家主権の相対化という言葉もありますが、悪いことに、領土問題になると主権の固定観念が突然強固になり、絶対的かつ排他的な権利になります。ほとんど古めかしい所有権のアナロジーです。これでは、一個の領土に二つの主権が併存することはあり得ません。このニッチもサッチも行かない問題を解きほぐすには、玉虫色解決しかない筈です。しかし、田中角栄と周恩来が了解した棚上げ論は、今や陰を潜め、日中双方が主権を主張するという知恵のない紛争になっています。将来、主張の応酬に止まらず、中国が尖閣諸島に武力を行使した場合は、我が国政府は、領土の喪失を絶対に阻止するために応戦するのでしょうか。理屈としては、自衛権の行使になります。しかし、中国からすれば、領土主権の回復です。

 その場合、戦場が尖閣諸島に限定される保障はありません。戦火が南西諸島から沖縄や更に本土の基地に及ぶことは充分あり得ることです。仮に、徹底抗戦することになれば、どちらかが敗北するまで引き返す途はあり得ません。我が国が自衛力の限界まで応戦すれば、本土全域が戦場になる可能性すらあります。まずいことには、日本海側には、沢山の原発が林立して一部は稼働中ですから、通常弾頭のミサイルで狙い撃ちすれば、核攻撃した場合とほぼ同じ結果をもたらします。そうなれば、ウクライナの惨状を超えるこの世の地獄です。それとも本土決戦に至る前に頃合いを見計らって停戦するとでもいうのでしょうか。

 しかし、それは、空論ですね。

 

 こうして考えると、尖閣諸島を巡る個別的自衛権の行使であっても、平和的生存権から考察するならば、その全面的否定と同じになる現実的危険性があります。国家意思と人権が対立した場合、どちらを採るかの問題に帰着します。戦争によって国民の平和的生存権が全面的かつ徹底的に蹂躙されるのであれば、個別的自衛権の行使を理由に正当化することはできないというのが私の立場です。国民の生命財産を守るために自衛権を行使するという命題は、抽象論としては正しいですが、差し当たっては、戦争に勝つことが具体的な目的になります。そうすると、軍事的合理性のある戦術が適時適切に選択されることになりますので、国民の生命財産は、反射的間接的に蹂躙されます。尤も、武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(平成十六年法律第百十二号)があります。同法は、第1条(目的)において、「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置を的確かつ迅速に実施する」と規定していますが、ウクライナの惨状を参照すると現実問題として実効性には疑問があります。

 

 平和的生存権を尊重するならば、中国による尖閣諸島への武力攻撃には、自衛力をもって対抗することは現実的ではないというべきです。それは、恰も北方領土をロシアから武力によって取り返すことができないことと同じです。

 仮に、尖閣諸島を自衛力で守るというのであれば、ロシアに不法占拠されている北方領土を自衛力で奪還しなければ辻褄が合いません。そう主張した政治家もいましたが批判を浴びました。核大国ロシアを相手にそんなことは絵空事です。核武装している軍事大国の中国相手に尖閣諸島の領有を巡って自衛力を行使するのも同じ程度に絵空事ではないかと思います。

 なすべきことは、いかなる困難があっても個別的自衛権発動に至る道には決して迷い込まないことです。相手がたとえ悪魔であっても積極的かつ徹底的な平和外交しかないのです。積極的平和主義とはそういうことです。

 かつての戦争で三百数十万人の人命を失った挙げ句に領土も主権も失うという国家存亡の危機の中で戦争終結に至ったことを想うべきです。平和外交が失敗し、尖閣諸島が有事に至った場合を想定すると、その時の日本国首相は、個別的自衛権を発動するのではなく、国民の平和的生存権を優先して、恰も天皇が苦渋の決断をしたと同様の決断をしなければならないと思います。しかし、そのような危機の到来は、外交力を駆使してもっと早い段階で防ぐべきです。

 使うことのできない自衛力の増強のために防衛費をGDPの2%まで増額するとか敵基地攻撃能力を持つなどという非現実的な議論はなすべきではないということです。

 ウクライナの惨状から学ぶべきは、個別的自衛権の対抗概念として、あらゆる人権保障の前提である平和的生存権を掴み直す必要があるということです。

 

弁護士 平井

岐阜県弁護士会会報 寄稿文より

TOP